縁起

国が栄える御代に村上の安泰を願って

西奈彌羽黒神社は持統天皇の治世687年、村上の安泰を願い西奈彌山(現在の臥牛山)に創建され、西奈彌神社と称したという社伝からはじまります。 

律令整備や文化基盤の編纂、銭貨の鋳造など国の礎を整備した夫・天武天皇の遺志を継いだ持統天皇の御代は、我が国の呼び名が倭から「日本」へと移っていくように、国が栄えていく時代でもありました。 

平安時代の律令をまとめた「延喜式」の巻九および巻十「神名張」という神社(式内社)の記録簿にも、式内八座のひとつとして西奈彌神社の名前があります。 

御祭神は村上の地を拓いたとされる奈津比売大神。 

素戔嗚命の子孫にあたり、農耕や夏の恵みを庇護する神として知られています。 

戦勝の霊験を敬う心から合祀へ 

広大な庄内平野、酒田湊を擁していた出羽国の庄内地方は、経済的価値が高いことから周囲の有力大名らが獲得を狙っていました。 

1580年代になると山形藩の最上家が攻め入るようになり、尾浦城を構えていた大宝寺家(武藤家)は、盟友だった本庄城(村上城)の城主で上杉家の重臣・本庄繁長公の支援を受けて、これを迎えうちました。 

のちに「十五里ヶ原の戦い」と呼ばれる戦役に向かう折、繁長公は出羽三山神社を参詣して戦勝を祈願しました。 

兵力に大きな開きがあったにも関わらず、繁長公らは最上の軍勢を撃退。 

出羽三山神社の霊験によって戦勝を納め、庄内を手中にし平定することができたとして、西奈彌神社へ出羽三山神社の神々を合祀したことから「西奈彌羽黒山三社大権現」と称し、村上の総鎮守として歴代村上藩主からの崇敬を集めました。 

一説によれば、出羽三山神社からの最古の分社とも言われています。 

同時に、幅広い層から信仰を集めていた羽黒派古修験道の系譜にあることから、民衆からも心の拠り所とされました。 

合祀により御祭神は奈津比売大神、月読大神、倉稲魂大神の三柱となりました。 

月読大神、倉稲魂大神の二柱も農耕や食物の神として繁栄と安泰を願う人に寄り添う存在です。 

遷宮へ寄せられた町衆の祝福と崇敬 

城下の産業振興や領地内金山の産出量増などの豊かさへの功績をはじめ、乙宝寺三重塔(胎内市)の寄進でも知られる村上藩2代藩主・村上忠勝公(1599-1623)の時代に、西奈彌羽黒山三社大権現は西奈彌山の中腹に移されたとされます。 

その後、3代藩主・堀直寄公(1577-1639)によって1618年(元和4年)に改築をともなう城郭整備が成された際、「神社が城から見下す処に在るのは畏れ多い」と遷宮の案があがりました。 

まずは現在の神社が鎮座する場所の周囲に1,000本もの松を植えて清めました。そのことから、この一帯を「千松山」と称します。 

1633年(寛永10年)、現在地に社殿を建て遷宮。名称を「羽黒三所権現」としました。 

社殿を常に新しくみずみずしく保ち、伝統的な建築技術や様式、祭祀儀礼を次世代に継承する意味においても、この遷宮はとても重要な出来事でした。 

この遷宮祭が行われたのが旧暦6月7日。そのためこの日が例大祭とされ、暦法が変わった明治以降は7月7日となりました。 

大町の人々が大八車に太鼓を乗せて高らかに打ち鳴らしながら町中を練り歩き、遷御を盛大に祝いました。これが村上大祭のはじまりとされてます。 

まちの歴史と人々の息づかいの中で 

1870年(明治3年)には現在の名称となりました。 

遷宮の様子をかたどった行脚は、神社例大祭である村上大祭の中に歴史絵巻のように息づいています。 

地域の氏子や様々な地域から崇敬する人、神社を訪れる人など、多くの人々の手によって、西奈彌羽黒神社は守られてきました。 

開拓の御祭神からはじまり、歴史の呼吸とともに村上のまち、人、様々な生業を見守ってきた総鎮守は、今も昔もたくさんの人の篤い信仰に支えられています。 

関連記事